冬の木曽駒ケ岳(1976年12月)

投稿日: 1976年12月10日 | カテゴリ:『登山』>中央アルプス

飯山線伊那市から旧登山道沿いに冬の木曾駒ケ岳を目指した山行 。

1976年

12月9日
  23時45分 アルプス5号 新宿発
12月10日
   5時     伊那市着。タクシーで小黒川発電所まで。
   6時     小黒川発電所出発。天候は晴れ時々曇り。
  12時     大樽小屋
  15時     やっとこ平付近にツェルト・ビバーク
12月11日
   6時     出発
  11時     胸突きの頭
  15時     西駒山荘
12月12日
   7時     西駒山荘出発
  11時     駒ケ岳山頂
  14時     千畳敷ロープウェイ

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どうして冬山に行こうと思ったかははっきりしない。たぶん昨年買ったピッケルを不要にしたくなかったこと、冬山登山という前からの念願を果たしたかったことなど、けちな考えだったと思う。ともかくも3連休を利用して木曽駒ケ岳に出発した。
当初は空木岳→駒ケ岳への縦走などという冬山に対する無知からする無謀な計画を立てたのである。勿論山に入った状態で大幅に短縮することは考えていた。ということで、取っ付きを空木にするか駒にするかでかなり迷ったのであるが、家を出るときにはバスの便が良いということで空木岳へのコースと決定していた。しかし、列車の中で考えた結果、初めての冬山であるし空木岳のほうには危険なコースも多いということなので駒の方に登ることに決心した。
新宿発11時45分発のアルプス5号は八ヶ岳行きなどで何回か乗った列車だ。山に行くときの車中は何か全てのものから解放されたようでゆったりとした気持ちにいつもなる。列車はシーズン初めであり、かつ金曜日の夜行であったのでガラガラであった。

12月10日
辰野へは4時半ごろ着いた。飯田線への連絡はよい。5時過ぎに伊那市に着いた。外はまだ暗い。ここに降りたのは僕一人でちょっと不安になった。駅員にバスターミナルの場所と内野萱行きのバス始発を聞いた。駅員は快く教えてくれた後、心配そうに「山に登るのかね。山はもう冬山だよ」と忠告してくれた。僕が一人であることを心配しているようであった。バス始発までは間があるのでタクシーで行くことにした。タクシーは発電所の手前まで入ってくれた。料金は1300円程度。
靴の紐、ザックを締めなおし出かけた頃は空が少し明るくなってきた。時計を見るとまだ6時前であった。この辺りはまだ雪は多くなく林道はアイスバーンになって滑りそうなので注意深く歩いた。信大合宿所わきに登山口があり、その登山口の看板には駒ヶ岳登山についての注意書があった。この中には「装備は完全か」という言葉があったと思う。今となってはなんともはや痛い言葉だ。5、6cmの雪の道を登って行くと途中から3つの足跡が点々と続いている。先行者のラッセルの跡かと思って一瞬うれしくもなったのであるが、どうも靴やアイゼン、ワカンの跡でもないようである。大きさから言うと熊ぐらいのものが想像されゾートしたのだけれども、よく考えてみると熊がいたとしても冬眠の季節である。何であるか解からないまま、気味悪い気持ちでそのトレースをたどっていった。
ブドウの泉で水を補給。登りもたいしてきつくなく雪も深くはない。南アは雲に隠れていた。高度を上げて行くにしたがって雪も30cm位になり風も少し出てきた。周囲の山が雪に煙っている。漸く冬山らしい感じがしてきた。と同時に少し怖くもなってきた。
ノタ場を過ぎて横山からの道との出会いに着いたのは9時ごろであったから夏のタイムとほぼ同じであった。馬返しの辺りから雪が膝までになり、ここから見上げる胸突八丁の頭のあたりが非常に高く雪煙を上げているのを見て「あんな地獄のような高いとろろに一体いけるのか、いける勇気があるのか」と恐怖感が湧いてきた。そしてこの頃夜行の疲れも出てきたし、腹も減ってきた。大樽小屋で休憩をとろうと決めて胸突八丁の急登に取っ付きはじめた。しかし、その大樽小屋がどこまで行っても見えてこない。途中見逃してしまったのかと思って心配したが、ヘトヘトになって漸く林の中に小屋を見出すことが出来た。馬返しから2時間もかかってやっと辿り着いた大樽小屋はまったく荒れていた。入り口の扉はなく、ハメ板もところどころ破れていて風通しがよい。全く宿泊できるような小屋ではない。この大樽小屋での宿泊が不可能になったいま小屋泊まりとするとしたら西駒山荘までがんばるしかない。
それはともかく、腹ごしらえをしなくてはならない。ラーメンとモチを煮ようとラジュスを取り出し食料をそろえてさあ火をつけようとした時、ふと黒い雲が頭の中を広がった。すぐその重大さに身震いした。マッチを忘れたのだ。いくら性能の良いラジュスがあっても、大量の燃料があっても火をつけるものがなかったら、それらは全て無に帰してしまう。防寒具や食料品などの点検は十分すぎるほど行っておきながら、マッチひとつだけを忘れてきたのだ。僕はいつもそうだ。袋を包んでおいていて、いつも小さな穴が開いていて命取りになる。このことにがっかりした。もしかと思ってリックサックをかき回したり、小屋中を探し回ったりしたが徒労に終わった。しょうがないから、パンにジャムを付けて食べた。水を少し飲んでそれで終わり。食事といったようなものではない。西駒山荘まで行けばマッチぐらいあるだろうと見当を付けて向かう。12時半出発。
雪はますます深くなるばかりだ。膝から腰まで入る雪で遅々として進まない。粗末な食事なもので体力も著しく低下しているから疲れも早い。5m~10m登っては一休みといった登行を繰り返しながらなんとか強張ったが胸突八丁の頭には着かない。その日は西駒山荘まで行くことは諦めて、早々にビバークの用意にとりかかった。その地点は皆目見当が付かない。後から推定したところによるとやっとこ平付近であったようである。
足で雪を払ってそこにツェルトを張る。中に入ってパンとジャムとハムの夕食をとった。なんとも惨めな食事であった。早々にシュラフザックの中に入り込んで寝ることにした。夜行の睡眠不足ですぐに寝付けた。3、4時間ほど眠ったと思うが寒さで目を覚ました。外は時折強い風が押し寄せてきてツェルトを揺さぶる。ツェルトのまま吹き飛ばされてしまうのではないかと不安であった。寒さと空腹で熟睡など出来たものではない。それでもウトウトしているうちに朝になった。零下10度前後はあったと思うが凍死するなどとは思わなかった。

12月11日
6時ごろシュラフから起き出してパンとハムを食べる。水は凍っていた。ジュースで食物を流し込んで朝食を終わる。早々に荷物をまとめて出発したのは7時。辺りはもう明るくなっていた。天気はいいらしい。腿までつかる雪をラッセルしてゆっくりと登って行く。しかし、不十分な食事で体力がまいっている。5歩行っては一休みといった具合でなかなか高度がかせげない。樹林帯の中なので風はないだけ楽だ。
それでも津島神社を過ぎ、森林限界の近くまでやってこれた。ここからは晴れ渡った空に青く浮かんだ八ヶ岳、南アルプスがすばらしい。胸突八丁の頭ももうすぐだと思って雪の上にひっくり返って休んだ。太陽の光がかなり強くて暖かい。
元気を出して再びラッセルをしながら登り始める。なんとか頭の標示のあるところまで着けた。時間を見ると11時だ。なんと夏なら1時間足らずのところを4時間もかかってしまった。ワカンがあったら少しは短縮できたのではないか。
御者岩を右に眺めながら森林限界に抜け、稜線に出た。雪はほとんどなく岩と土に氷が張り付いていた。滑らないように注意深く歩いた。風が冷たい。いままで湿っていたオーバー手袋が突然バリバリに凍った。この変わり様に一撃を食らった。と同時に肉体的にもどっと疲れがでた。そう長くは歩けないだろうと直観した。稜線上の頂に目をやって伊那小屋を捜した。小屋は視界上にはなかった。将棋の頭山まで登らねばならないと思った。しかし、そこまで登れる自信はなかった。ひっくり返って休みたかったが、この吹きさらしの中ではたちまち凍死してしまうだろうと思った。
腰が安定しないからフラフラして歩いた。急登を前にして「あーもうだめだ」と思って左手の方に眼をやると雪に煙って小屋らしきものが見えた。眼を凝らしてみると確かにどっしりした小屋だ。「西駒山荘だ」と咄嗟に思った。すぐ後に幻想かなと思ったが、小屋はどっしり構えて視界からは消えなかった。
山腹をトラバースしていけることが見当できた。ハイ松の上を雪を踏み抜かないように注意してトラバースしていった。時々雪の中にズッポリ落ちて抜け出すのに苦労したがなんとか小屋まで辿り着くことが出来た。
冬用の入り口(窓口)から中に入って雪が吹き込んでいる床に仰向けにひっくり返ってしばらくはそのままでいた。しばらくすると元気が出たのでまずはじめにマッチを探した。案の定炊事場らしきところに大箱のマッチが二つ置いてあった。少々湿っていたが火はついた。ラジュウスに火を着け雪を溶かし水を作ってホットミルクを飲んだ。涙が出るほどうまかった。体中に力がみなぎってきた。温かいものと冷たいものとがこれほど体力回復に差があるのかということを痛切に感じた。一息つけたところでラーメンとモチ、ハムをミソのごった煮にして空腹を満たした。
これで全てが満足されたと思った。今日はここに泊まって十分体力を回復させて、明朝ここを出発することに決めた。二階にゴザがたくさんあったのでシュラフの下と上に被せて寝た。暖かく眠れたというわけではないが、昨夜のビバークとは比較にならないほど精神的にも肉体的にも安定した気持ちであった。今日は土曜日でもあるし後から誰かが来るだろうと思っていたが、誰も訪れる者はいなかった。

12月12日
朝6時前に起きて朝食の仕度。ラジュースの具合が悪い(火力が強くならない)のでメタで湯を沸かし食事を作った。食事を済ませて荷物を整理して小屋の後片付けをして外に出た。
辺りは一面明るく風も弱かった。辺りの山は雪煙を上げていたが快晴だ。馬の背尾根に出てアイゼンをはいた。木曾側の雪が飛ばされてアイスバーンになったところを選んで歩いた。風も弱く雪に埋まることもないから昨日までのラッセルに比べ雲泥の差だ。しかし、所々雪が締まってなくてズッポリ腰まで落ちてしまうところがあった。こういうところは距離も短かったので両手にピッケルを持ち四つん這いになって這い上がった。とてもみっとうもない格好で人が見ていないから出来るといったものだ。ワカンがあったら楽だと思った。一箇所登るのに神経を使った所があったが、アイゼンを効かせ、ピッケルでバランスを取りながら難なく通り越せた。
能ヶ池のある辺りで一人グリセードの練習をしていた。二日半も人に会っていなくてとても大声を掛けてピッケルを振りたい気持ちになったが、相手が一生懸命なので悪いような感じがしたので止めた。でも相手がこっちを向いたらと思って何回となく振り返ったがとうとう挨拶はできないまま通り過ぎてしまった。
難なく駒ケ岳の頂上につけた。360度遮るものはない。真っ白な北アルプスがとっても印象的だ。あのどこかの頂上に立つ日も近いと思った。30分ほど頂上にいて千畳敷の方に下った。千畳敷への急坂はシリセードで下った。100mの高度差を2、3分で滑ることが出来てとっても快適だった。

3000m級の冬山を完登できたことで自信がついた。様々な教訓になるべきこともあった。天候に恵まれるといった幸運に助けられて何とか頂上に立つことはできたが意識的な計画については全くでたらめであった。何かのアクシデントに十分耐え得る余裕のあるものでなかったのは確かだ。何とか命をつなぎ止めたことを大事にしたい。


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冬の木曽駒ケ岳(1976年12月)” への1件のコメント

  1. この記事は私が28歳のときに「登山日記」に記録しておいたものです。いまさら読み直してみて当時はなんと向う見ずな登山をしていたのかな、という感想です。一方、当時の山への情熱が非常に強かったことが伺えます。初めて冬山に登った時で多くのミスをしています。反面教師にしてください。以降も冬山に登っていますが今日まで生きながらえているのはこのときの教訓が大きかったと思います。
    ところで途中に出てきた「3つの足跡」はなんだか解かりましたか。そうですウサギの足跡です。これは、その後の何回かの冬山登山を経験する中でやっと解かったことです。

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