南アルプス南部縦走(1983年7月)

投稿日: 1983年7月29日 | カテゴリ:『登山』>南アルプス

静岡からバスで畑薙ダムに入り、茶臼岳と聖岳の頂上を踏破する。予定では赤石岳に登るつもりであったが雨に降られて頂上を踏まずに広河原(木曽側)に下りる。

1983年
7月29日
12:15~12:45 畑薙第一ダム
13:45~14:00 畑薙大吊橋
17:30着 横窪沢小屋
7月30日
6:50 横窪沢小屋
8:00~8:15 水呑み場
9:30~10:50 茶臼小屋
11:30 茶臼岳頂上
12:15~12:30 お花畑
13:30~13:40 上河内岳頂上
15:15 聖平小屋
7月31日
6:00 聖平小屋 発
9:00~9:15 聖岳頂上
11:00~11:40 兎岳避難小屋
15:00 百間洞山の家
8月1日
5:30 百間洞 発
10:30 広河原
11:20 巻き道入り口
16:30 釜沢荒川荘
7月29日

7月28日が晩勤勤務なので7月29日早朝に出発した。少々出費は嵩むと思ったが日にちに余裕があるわけでないので新幹線を利用した(新横浜→静岡間で3800円)。静岡までは1時間余りの行程だ(6:22→7:38)。畑薙までは3時間30分ほどかかる。冷房車だからウツラウツラのんびり乗っていけばよい。

畑薙で登山届けを提出。山菜そばを食べて出発。夏の日差しが強いのでニッカズボンでは熱い。半ズボンの方が快適だと思った。大吊橋まではほぼ1時間の行程である。大吊橋の渡り口に医者の車、警察の車が止まっていて、その近くに10数人の人が待機していた。僕は吊橋の点検かその周辺のパトロールでもしているのだろう、とあまり気にかけずに吊橋を渡った。ところがヤレヤレ峠を過ぎた所だと思うが3人の人がキャラバン・シートに包まれた『モノ』を運んできた。「すみません、通してください」と声をかけてきたので脇にどいて道を開けたが、直ぐに遭難者であると思った。それも既に死亡していることは明確だった。僕は少々面食らった。このような一般道で死者が出るとは咄嗟には思い浮かばなかったからだ。たぶん過度の疲労で心不全でも起こしたのであろう、と推測した。ところが後で横窪の人に聞いた話ではあるが、ウソッコ沢小屋に至る吊橋の脇から沢に足を滑らせ100mほど滑落し即死の状態であったという。静岡高校の一年生だという。高校受験を終わって一番楽しいときであったろうに。前途ある若者の死に惜吝(せきりん)の情を禁じえなかった。ともかくもその死因は定かではなかったにしろ入山直後遭難者にあったことは決して気持ちの良いものではなかった。しばらくの間、気が滅入ってしまった。ウソッコ沢小屋までは吊橋が三つ程かかっていたと思う。それらの吊橋はしっかりしていて道も明瞭に踏まれていたのであるが…。

ウソッコ沢小屋からの急登には少々参ったが、それほど長い登りではない。登りきれば直ぐ横窪沢に出る。少々遅い到着だが夏の長い日なのでゆっくり食事の支度をする。食事の支度の間、漬物をさかなにして飲んだビールは格別にうまかった。パック入りの農協ご飯も大変うまい。特に調理が簡単で便利だ。冬山には特に威力を発揮するだろう。
かなり疲れていたはずだが眠れない。なぜだろうか。疲れ過ぎていて興奮しているからであろうか。

7月30日

浅い眠りの中をウトウトしているうちに夜が明けた。早立ちの人は4時頃から起きだしたみたいだ。「うるさいな」と思いながらも一緒に起き上がることはとてもできない。意識は半分さめているのだが体の方は睡眠状態を彷徨している。ひときりの喧騒が止めばまた心地よい眠りに誘い込まれる、といった具合で起きたのは6時過ぎだ。同宿の人たちはみな出かけてしまったらしい。フランスパンとジュースで軽く食事をすませ小屋を出発したのは7時近くであった。茶臼への登りはたいしたことはない。ゆっくり登ってもコースタイムを1時間短縮した。茶臼小屋の水場を利用して昼食をとる。中華丼というジフィーズとお茶で食事らしい食事。1時間とちょっと、たっぷり休憩をとって出発する。途中上河内への稜線に荷物を置いて空身で茶臼岳を往復。その途中で夫婦の雷鳥に出会って写真を取らしてもらう。辺りは霧が立ちこめていて全く遠望が利かない。茶臼の頂を踏んだといっただけだ。方向指示板からの道は丘陵上の所を歩くが、道がはっきり踏まれているわけではない。2555mのピークの左腹を巻いているからそれへの降り口を見つけるために左よりのルートを取ったほうが良い。降り口からハイマツとダケカンバの間をぬった明瞭な道が踏まれている。途中高山植物が点在する。草原地帯のお花畑を過ぎると亀甲状土のみられる広い草原地帯にでる。そこを過ぎると上河内への登りにかかる石のゴロゴロした道を辿るがたいした登りではない。上河内への登りは明瞭についている。ただそこが上河内への取付点だという明確な表示がない。霧の場合などは知らずに過ぎてしまうかもしれない。上河内もピークを踏んだだけで全く展望はきかない。霧が晴れれば聖、赤石の巨体を間近に眺めることができたであろうに。上河内からしばらくやせ尾根を下る。聖平への下りは樹林帯をいやというほど下ってしまう。途中雨が降り出した。たいした雨ではなかったが雨具をつけた。聖平へ着くころは雨もあがっていた。だが聖平小屋に到着した直後に強い雨足で降り始めた。この雨は7時か8時ごろまで間歇的に続いていた。米を3合ほど炊いてカレーで夕食を済ませた。残ったご飯で握り飯を作って明日の朝食に備えた。ところが朝そのようなボリュームのある食事は胃が受け付けない。メシもさばさばなので捨ててしまった。
早々にシュラフにもぐって眠りたかったが、隣の3人のパーティがいつまでもガヤガヤやっている。それも8時には終わったがそれ以降、やはりぐっすり眠れたわけではない。

7月31日

早立ちの人たちの荷作りの音を聞きながらまどろんでいたが、それでも5時ごろには起床する。冷たい握り飯を1個食べただけで出発する。辺りは霧が立ち込めていて展望は全くきかない。しかし、聖平のお花畑を過ぎたころに日が差してきた。樹林帯を抜けると霧の合間から聖の巨大な山体が仰望できた。それは、展望のきかない縦走に嫌気がさして「聖に登って下山しようかな」、という日和見的な気分を一挙に吹き飛ばした。視覚で捉えた聖の巨大な山容は内部のエネルギーに火をつけ気力を高揚させた。樹間に見上げる聖は大きくそして高かった。しかし、とても辿り着けそうにもない高い頂に見えた聖も樹林帯を抜け小聖をまじかに見るころになるとグングンと近くに迫ってきた。空身ではグイグイと登れるところだが重い荷物を担いでは喘ぎ喘ぎ一歩づつ登るしかない。だが頂が見えているというのは気持ちを楽にする。聖の頂上は風が強かった。霧に閉ざされて展望はきかない。兎への下り口ははっきりしているがそれに続く道筋が視覚で確認できないのは不安を誘う。また風の強さも気懸かりであった。しかし、下りだすと風はやみ日が差してきた。聖岳頂上の風の強さと寒さはうそのようだ。霧が晴れた途端、谷を一つ越えてまじかに大きな山体が現れた。休憩中の人に聞くと赤石岳だという。こんなにも近くに見られるとは思ってもみなかった。赤石への行程が一日半かかるという時間的先入観が、聖と赤石が直線距離的にも遠いと思い込ませていたのかも知れない。ところが地図を見てみれば解かるように、聖と赤石の縦走路は、U字状に遠回りしているから直線距離にすれば赤石沢を越えただけの距離になる。
兎との鞍部まで一気に下降する。霧の中に隠れた兎への登りをかなり急なものであると推測していたが、実際登ってみるとたいしたことはない。避難小屋で昼食(ラーメン)をとる。小屋の中は湿っていてかび臭くて夏などはとても泊まる気にはなれない。兎の頂上はそこから10分ほどの距離だ。しかし縦走路がどうもわからない。感からするとま直ぐ行くと東の方にそれてしまうと思った。だから縦走路はもう少し手前かと思った。分岐点が兎の頂と思っていたからだ。東方向に標識らしきものが見えたのでいってみた。読み取りにくい字で兎岳と書いてある。しかし、中盛丸山方面への踏み跡が見出せないのが不安であった。標識がないのもその要因であった。兎以降踏み跡がないことから、元に戻った。男一人女二人のパーティが休憩していた。縦走路の方向を聞くと僕の戻ってきた方向だという。地図を出し、またその人に磁石を出してもらってその考えが誤りだということを説明するとその人も不安になったみたいでちょっと戻って急下降する道を見つけてくれた。確かに踏み跡もある。まさかこれほどの急坂だと思っていなかったところに落とし穴があった。それに磁石を忘れたことがルート・ファインディングに時間を食ってしまった原因だ。
小兎までは2、3のピークを乗り越す。小兎の下りに親子連れの雷鳥を見つける。人の存在等あまり気にかけず呑気なものだ。昼からの霧で終始展望はきかない。このようなときの縦走はただ歩くだけで後に何も残らない。中盛丸山へはまだかまだかと少々うんざり気味になる。この山への登りは岩のゴロゴロした急登だが、それほど長い登りではない。一気に登りきった。中盛丸山を駆け下れば大沢岳との鞍部だ。ここから左に道をとれば大沢渡にくだり、右に行けば百間洞山の家となる。

百間洞山の家のオヤジは粗雑な人間だ。僕が宿を請うと、「ごくろうさん、どこからきました」と聞いた。ここまではいい。僕が「兎のほうから」と答えると、「明日赤石の避難小屋に泊まれば新記録だ」という。何のことか解からなかったが、「新記録」ということをよくとって「これからですか」(これから赤石に登れば新記録ということですか)と答えた。ところが少し落ち着いて考えると、兎避難小屋泊まりと解したらしく、兎から百間洞行程を1日できたことへの「評価」であったらしい。兎からきたと誤って捉えたのは僕の言い方がまずかったから仕方ないにしても、敢えて兎から来たとしてもいいじゃないか。まさか1日の距離を延ばすことを目的に山に来ているわけではないから。このようなオヤジの態度にむかっときた。コンロ使用のときも「火事を出さないように…出したら弁償してもらうけど」と口が悪い。といた具合ではじめから気分の悪い思いをしてしまったので、早々にシュラフに入って寝てしまった。疲れがたまっていたせいか、結構眠れた。疲れた足をぐっと真直ぐ伸ばすと痙攣しそうで怖い。

8月1日

例のごとく早立ちの人に起こされる。外は小雨みたいだ。赤石から小渋に下りる予定だったので朝食抜きで出かける。百間平への登りの辺りから本降りになってしまった。赤石頂上は強風だろう。頂上まで登っても何の展望もきかないから面白みがない。少し戻って広河原への下りの道を辿った。かなりはっきりした道がついている。途中からガレ場になっていってはっきりした道はついていない。どんどん下ると雪渓に覆われている小沢に行きあたった。そこからの道がはっきりしていないのでこの小沢を辿っていこうとした。広河原近くの支流だと思ったからだ。しかし、大きな石をスリップして腰を打ってからもう怖くて沢沿いに下りる気になれなかった。また、「巻き道」を見逃すという恐れもあったからだ。沢を登り返して対岸に道を探したところ明瞭な踏み跡がついていた。この道は小沢の左岸を巻いている。進むにつれ沢を離れてかなり上部に登る。この間幾つかの小沢を横切る。かなり高巻いたところで下降に移る。ルートを探しながら下りて行き、再び沢の音が聞こえだしたころに「広河原小屋に10分」の標識があってびっくりしてしまった。もう既に小渋川の巻き道に入っていると思ったからだ。地図と照合してやっと広河原辺りに来ていることを知った。雨はかなりな量で降っている。チョコレートと乾パンを食べて腹ごしらえをする。朝から食べたものはこれだけ。腹もたいしてへらないし体力的にはまだまだ歩ける自信があった。
先に横切った小沢は福川右俣の上流部分だと思われる。辿った巻き道は福川に沿ってつけられたものであろう。広河原を下っていくと登ってくる人が3人いた。登ってくる人がいるということはまず下れることは間違いないであろうと喜んでいると、そのパーティのリーダーらしきひとが「渡渉」しないと下れない」という。彼らは引き返してテントを張って考えるという。冗談ではないと思った。明日しか休みをとっていないのに停滞したら会社を休まねばならなくなる。ともかくもその「渡渉」箇所のところまで行ってみることにした。よく観察してみると左岸にヘツテ行けそうだ。登ってみると降り口の所にハシゴが架かっていた。先ほど会った人に大声で「渡れるぞ」と叫んでみたが聞こえないのか行ってしまった。戻って教えてやろうと思ったが時間的にかなりロスをするのでやめた。以降、左岸を巻く道にはハシゴがつけられている。そのような所を二、三箇所通過すると「巻き道」の表示のあるところに着く。ここまで来てほっとする。後は巻き道を忠実に辿れば林道に出る。長い長い道程であった。また右のすねが痛くて閉口した。

黒部沢を過ぎると直ぐ川原に下りる。増水していたので直ぐには渡れない。先行パーティに渡渉可能地点を教えてもらう。情報ではバスは湯折まで来ているはずであったが釜沢までも入っていなかった。大河原止まりであるという。釜沢荒川荘に一泊する。次の日、同宿の人のマイクロバスに分乗して伊那大島駅まで送ってもらう。有難い次第である。このような幸運に会わない場合には、大河原までタクシーを呼んでもらえるそうである。


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One thought on “南アルプス南部縦走(1983年7月)

  1. 百間洞山の家のオヤジとの件があって、山小屋泊まりが嫌になってしまった。また、山小屋は寝起きの時にうるさいということもあって、一人用のテントを買った。これ以降、テント泊まりが私の山行パターンになった。いってみれば、これが私の山行のひとつの転機になった。

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